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奥州藤原氏 第一巻

〜 みちのくに花開いた黄金文化,奥州藤原氏 〜

今の東北地方には約900年前,”日本”とは違う,一つの独立国が存在した!?その主人公,奥州藤原氏の誕生と滅亡の軌跡を追ってみました。

奥州藤原氏の祖,安倍氏の隆盛と滅亡

1.俘囚の長,安倍氏
古来,奥州(今の東北地方)は「みちのく」と呼ばれていました。「みちのく」と言う言葉自体,「道の奥」という言葉に通じ,「都から離れた田舎」といった少し蔑視が入った感覚だったようです(現在では立派な東北地方の愛称となっていますが)。

古代より,大和朝廷の征服の対象となっており,奥州に以前から居住する人々(アイヌ系?)を蝦夷(えみし)と呼び,北へ北へと進出していきました。その過程で,朝廷に服属した蝦夷を「俘囚(ふしゅう)」と呼び,やがては朝廷の土地を管理し,維持する役目も負わせるようになっていきます。

なぜ征服者である朝廷が,被征服者である「俘囚」に征服地を管理させるようになったのでしょうか?これには,朝廷の事情があります。元々,朝廷のシステムでは,地方の国(例えば,美濃国,武蔵国など)を統括するのは「国司(こくし)」と呼ばれる地方長官であり,現地にいて指揮をとるのが普通です。

しかし,この10世紀頃になると「遙任の制(ようにんのせい)」により,国司が必ずしも任地に赴かずとも,代理人の派遣でも良い事になり,現地の実務を取り仕切る人が足りなくなってきます。そこで朝廷は現地の事情に詳しい,俘囚を利用したのです。その俘囚の中で,一番抜きんでた一族が安倍氏だったのです。


安倍氏の出自は?
安倍氏の出自ははっきりしません。一説によると,中央から在庁官人(現地官僚)として,奥州に土着した阿部氏が安倍を名乗ったという説もありますが,真偽は不明です。いづれにせよ,蝦夷系の地方豪族であったことは間違いないと思われます。
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2.安倍氏の隆盛と前九年の役の勃発
こうして,地方豪族,しかも俘囚の家柄ながら,朝廷の地方代官的役割を果たすようになった安倍氏。安倍氏は奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の6郡→→→現在の岩手県の西部)を拠点に,安倍頼時の時代には奥六郡を越え,衣川あたりまで進出します。

安倍氏は,朝廷に年貢のほか,莫大な砂金や,アザラシの皮,奥州の駿馬などの金品を貢ぎ,その支配を黙認させてきました。朝廷にとっては,年貢さえ納められていればそれでよかったのですから,言うことは何も無いわけだったのです。しかし,頼時が衣川まで進出して貢納も拒否し,勢力を拡大し始めるとなると,話は別でした。

これ以上の頼時の勢力拡大を望まなかった朝廷は,陸奥国府の多賀城(宮城県)の国司に命じて,頼時を討伐しようと図ります。1051年(永承6年),陸奥国司の藤原登任(ふじわらのなりとう)は,隣国出羽の平重成(官名 秋田城介)の援軍を得て数千の軍勢で攻撃を開始します。

これに対し,安倍頼時は反撃を開始。鬼切部(おにきりべ 宮城県鳴子町あたり)で国府軍は,地の利を熟知した安倍軍に大敗を喫し,平重成も捕虜となるなど,大打撃を受けます。ここに足かけ12年に亘る前九年の役が始まります。

大敗に驚いた朝廷は,登任を解任,新たに陸奥国司と鎮守府将軍に源氏の棟梁,源頼義(みなもとのよりよし)を任命します。ついに源氏が争乱の主役の一大勢力として登場してきたのです。

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古代,アザラシは関東にもいた?
ちょっと前に,東京の多摩川にアザラシの「タマちゃん」が現れ,可愛らしい姿としぐさで私たちを和ませてくれました。「こんな所にアザラシなんて珍しいねぇ〜」と言われてましたが,古代には千葉県の房総半島あたりにも出没していました。人間が東国に入り,さらに奥州まで踏み込んでいくにしたがって,それに追われるように,アザラシ達もどんどん北上していったようです。人の営みというものは,自然の生態系にも影響を与えるようですね。

なぜ藤原登任は自ら赴任?
10世紀頃の国司は「遙任の制」により,代理人(目代)の派遣でよかったのですが,登任は自ら現地に赴いています。同じ藤原氏といっても,登任は勢いの盛んでなかった南家巨勢麿流だったといわれます。当然,荘園の寄進や貢物なども少なく,奥州で一旗あげるつもりで赴任したようです。いわば出稼ぎですね。しかし,本人の思惑とは全く違う結末になってしまいました。

3.源氏の野望と安倍氏の頑強な抵抗
平忠常の乱を鎮定し,関東に地盤を築いた源氏の棟梁,源頼義。彼の次の狙いは奥州にありました。「更に源氏の勢力を拡大するには,豊かな奥州こそがふさわしい」と考えたのも無理はありません。

陸奥国府には,主従関係にある藤原経清(ふじわらのつねきよ 秀郷流藤原氏)が,亘理権大夫(亘理地方の長官)として駐在しています。現地の事情に明るい経清を参謀に安倍氏を叩くのが頼義の戦略でした。

陸奥守兼鎮守府将軍として多賀城に赴任した頼義。彼は嫡男の義家も同行させていました。そう,有名な源義家です。後に奥州藤原氏の成立と大いに関連してくる人物ですが,後述する事とします。

頼義は,藤原経清ら,多賀城の武将達を指揮して安倍氏を攻撃します。安倍頼時こそ戦死させますが(実際は,安倍一族内の争いで戦死),その跡を継いだ安倍貞任の頑強な抵抗を受けて一進一退の攻防が続きます。

そのうち,頼義にとって一大事が発生します。なんと,頼みともしていた経清が安倍氏に寝返ってしまったのです。一進一退の中で,とある合戦の敗北の責任をとらされて平永衡という武将が自決させられます。彼は安倍頼時の娘婿でした。

実は,経清も頼時の娘婿でした。「このままでは,自分も永衡殿と同じ運命に・・・・・・・」と思ったかどうかは想像の域を出ませんが,突如として安倍側の陣営に駆け込んでしまったのです。

寝返り武将まで出た頼義軍は弱体化し,一時期は頼義自身も命を失いかけ,危ういところを義家の獅子奮迅の働きで虎口を脱する(黄海の戦い 1057年)という有様で,散々に打ち砕かれてしまうのでした。

この後,頼義は安倍軍の前に手も足も出ない状態となってしまい,「とても自軍の戦力だけでは安倍軍を打ち負かすことは出来ない」と考え始めます。そこで,援軍を要請することになります。

頼義が援軍を求めた勢力。それは源氏でも,平氏でも,朝廷の武士でもありませんでした。その勢力とは,陸奥の隣国である出羽(現在の秋田県)の俘囚長,清原氏でした。


関東は平氏の地盤だった?
源氏といえば,”鎌倉を本拠地に関東全体を押さえた武家の棟梁”というイメージがあります。しかし,源頼義以前は,鎌倉も関東も,実は平氏の地盤だったのです。平将門などが有力な武将として君臨したのは有名ですね。鎌倉も平忠常が本拠としていたのであり,源氏の本流の本拠は摂津・河内(現在の兵庫県や大阪府)にあったのです。

頼義と経清がなぜ主従関係に?
二人の関係が主従にあったというのはなぜでしょうか?これは,源頼義が平忠常の乱を平定した時に経清の父,頼遠が臣下に加わったためです。頼遠は下総(千葉県北部)に所領があったといわれ,のち亘理に移ったとされます。これが元で経清も頼義の傘下にあったとみられるからです。

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4.清原氏の参戦と安倍氏の滅亡 〜前九年の役終結〜
清原氏山北三郡(せんぼくさんぐん 雄勝・平鹿・山本の三郡。現在の秋田県東部。安倍氏の奥六郡と境を接する)を領する俘囚の長でした。初め,清原氏はなかなか頼義の誘いには応じませんでした。同じ俘囚として安倍氏を討つのをためらっていたのかもしれません。

しかし,1062年(康平5年)清原氏はついに誘いに応じ,参戦することとなります。なにをもって頼義が参戦を決意させたかはわかりません。恩賞で誘ったのでしょうか?清原武則を将とする清原軍は安倍軍に攻撃を始めます。

総数1万余騎の清原軍の加勢を得た源氏軍(3千余騎。清原軍の数のほうが多かった)は,瞬く間に安倍軍の城砦を陥落させていきます。安倍軍は厨川柵(くりやがわのさく)まで追い詰められます。

しかし,厨川柵は安倍貞任が入念に整備した柵(城)でした。川と城柵の間に堀をつくり,その底には無数の刃を突き立て,敵が近づけば矢はもちろん,熱湯や大石などが降り注ぐといった有様で,源氏軍もなかなか落とせません。

しかし,頼義は周辺の民家などを毀した廃材や,切り出してきた木材などを堀にどんどん投げ込み,火をかけます。その火は瞬く間に城柵に燃え移り,それに乗じた源氏軍は城内に殺到します。ここについに厨川柵は陥落し,城内の人々は老若男女,容赦なく皆殺しにされました。

貞任は最期に城から果敢に打って出ますが,乱戦の中に討死します。経清は捕らえられ,頼義の前に引きずり出されます。頼義の経清に対する怒りは凄まじく,わざと刃を鈍らせた鈍刀で,その首をさながらノコギリで切られるように切られながら,経清は絶命します。

貞任も経清もその首は京に送られ,獄門に晒されました。これで安倍一族のほとんどが死に絶え,安倍氏は滅亡し前九年の役は終結しました。しかし,安倍の血を半分,藤原の血を半分受け継ぐ男子が一人,生き残りました。経清と安倍頼時の娘との男子,清衡(きよひら)です。彼は後に安倍氏も清原氏をも越える,奥州の王となるのです。


第二巻,近日アップいたします!よろしく御願いします。
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